角度みたいな

話してみればただ淡々とした事実でしかないようなところ、自分でもちゃんと面白がれるような取り出し方ができる事がたまにあって、そういう時はすごく嬉しい。過去や未来も含めて、ここにいる僕の事、それはもう変えようがないはずなのに、それぞれの瞬間は何かの結晶のような、多面体をしていて、きゅっと突然、それがすごく綺麗に見える角度に、意識が移動できて、そういう時は目の前を覆っていた液晶の素子みたいなものが一斉に縦に並ぶような、それでさーっと光が入ってくるような、なんだか自分の向かう先だとか興味だとか、この先の長い未来にある事まで、全部が同列に明るく見えて、いい気持ちになる。

1年前だけど、鳥取での免許合宿に向かう夜の高速バスの座席で、まんじりともせず、その瞬間瞬間に自分の乗っているバスのタイヤが触れた道路のアスファルトの小石1つ1つへの想像に、突然意識が向いて、その小石に、その時の僕自身がバスのタイヤを通して触れる、出会ってしまう、バスが走ってタイヤが回るたび、次の小石、その次の小石、と無数にジャンプしていって、通り過ぎる一瞬一瞬、時間と物質と意識が、全てその接地面の一点にある小石1つに収束して、全部の小石が、そこにあるべくしてある、小石から道路からその上に座る他人や僕自身、この世の全てが今、代替不可能なんだ、と思って、そこから元気になった。

慎重に慎重に、その元気をこれまで保ってきて、だいたいもう平気そうだし、今夜からは意識的に、角度。
瞬間を一番綺麗に見る角度、をすっと探す事、移動できるようになる事!

それは僕と世界との摩擦をそのまま誰かに丸投げしない事、物語にしていく事、その中で生きる事。
コピルアク〜。

近況など箇条書き

前回の更新から3、4日更新してない!と今こうして日記、書き始めてるけど、体感上は1週間は経ってしまったような気がしているので、なんだか元気になって以降、1日が長くなったよな。

「となり街の知らない踊り子」は、一緒に買ってきた台本だけ読むと、思ったより使われてる語彙の少ない感じ、料理の材料を初めて見て、え、こんな粉と野菜だけで?みたいな、種明かし的なびっくりがあった。飴屋さんのブルーシートなんかもそうだけど、こういう舞台の本みたいのはだいたいこういう、小説とかに比べるとある程度絞られた文章になってる事多くて、次回はもう少し文章的に発語発語を並べていきながら、観てみたい。

一緒に朗読してた引きこもりの妹が、急に鬱が治ったみたい、とLINEをくれて、よかったなあ。ちょっとあまり間を作らないように、また遊ぼう。
映像の翻訳を頼んでいたフランスの人が、ちょっと会話文はやっぱり無理だった、みたいな感じで、できなかったとメールをくれた。
渋家の齋藤惠太さんから急に、サラケインの戯曲の日本語版を読みたいけどどこにもなくて、でも大井くんが昔出ていたのを知ったので、と台本がまだ残っているかどうかの電話がきて、探してみますと応えた。
昔、新潟で会った橋本匠さんから、吉原のお祭りで御輿をかつぐ人を探してる、とTwitterのメッセージで誘ってもらったので、半日くらいちょっと迷ったけど、行ってみようかな。でもみんなすごいアグレッシブな体育会系みたいだったらどうしよう。ちょっと怖い。
カッテニサイクルさんという個人経営の自転車屋さんで頼んでいた自転車の代金を払って、あとは完成を待つばかりになった。歩ける距離の家の周りと、車で行くちょっと遠く、の間を埋めたいと思っていたので、楽しみだなー。

もう1人の妹がご飯を食べようと言うので行ったら、最近絶縁状態の父親から僕についての相談を受けた、という話で、ちょっと1日くらい信じられないほど落ち込んでしまい、今復活してます。この1文を書いただけでまた胃の辺りがキリリとなってしまう。負けないぞ。
落ち込んだ時にTwitterに書いたものを、京都の人がお気に入りしてくれて、でもそのあとその書き込みは消してしまったので、なんか悪いことしちゃったかも、とそれも同じくらい落ち込んだけど、これも今思い返せばそんなでもない。でも助かりました。

ホームページの活動紹介のページに載せるものを、美術だとかに限定せずリストアップしてみたら、思ったより色々あって、嬉しい気持ちになった。自分でも忘れてたような初動が結構あり、元気のない頃の僕の日々のこまぎれの中にぐちゃっと混ざってどっかにいってしまっていたんだ。まとめて、つないでいくぞ。
どんどん放り投げていく簡単な管理画面を今さっき作ったので、明日からちょこちょこデータ入れてこ。

もう4時半だ。
5時頃になってしまうと道が異常に混み始めるので、そろそろ帰ろ。